伊達政宗:独眼竜と呼ばれた強靭な武将

2019/11/11
2020/03/09
thumbnail

manga1

manga2

manga3

伊達政宗(だてまさむね)は、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家光と多くの天下人に仕えました。若い時から軍の指揮を執り、戦う前に敵に対して寝返り工作を仕掛けるなど、策略や謀略など頭を使うことが上手い武士と言われていました。

もし、伊達政宗があと10年早く生まれていたならば、天下は誰のものになっていたかはわからなかっただろうと言われるほど、伊達政宗の器量は優れていました。

幼い頃に身につけた、弱さに打ち克つ方法

永禄10年(1567)8月3日、政宗は米沢城主の跡継ぎとして山形県米沢市に生まれました。その頃の日本は、織田信長を始めとする有力な戦国大名が全国統一を目指し、戦いを繰り返している時代。父・輝宗は後継である政宗の教育のために、名僧として知られる虎哉宗乙(こさいそういつ)を招きました。

政宗は幼少期に天然痘という、伝染力が非常に強く死に至る疫病を患ってしまいます。政宗の場合は幸いにも一命は取り止めましたが、顔には瘢痕(はんこん)が残り右目は失明してしまいました。その見た目からのちに独眼竜と呼ばれることになります。

当時、顔に跡が残る天然痘は忌み嫌われていたこともあり、その容貌から政宗は自分に自信を持てずにいました。虎哉は、政宗に、書道、漢詩、兵法など、様々な知識を与え、人が生きる上でもっとも大事なのは何かということを教えました。

虎哉「己の片目をどのように思う」
政宗「恥じております」
虎哉「なぜ、恥じているのか」
政宗「醜さゆえです」
虎哉「醜いと思うのは、そなたの心だ。あなたはおのれ自身と正面から向き合うことを避けている。強くなりたいと思うなら、逃げるな。まずは自分の心の弱さに打ち克つのだ」

虎哉のこの教えは政宗の胸に強く響きました。それ以来、政宗は己の弱さを知っているからこそ、克服する術を自分なりに模索し、工夫し、真の強さを獲得していきました。

18歳で伊達家の当主に 23歳で伊達家最大の領土を獲得する 

天正12年(1584)の秋、輝宗は41歳の若さで息子・政宗に家督を譲り、政宗は18歳で伊達家の当主となります。

そのころ東北地方には、有力大名たちがそれぞれ城を構えており、周りには中小の勢力もひしめいていました。

こうした戦乱のさなか、天正13年(1585)、輝宗が、福島県にある二本松城主である畠山義継に殺され、政宗は、「人取橋(ひととりばし)の合戦」と呼ばれる敵討ちの戦いを始めます。

伊達方は包囲部隊を含み、7千の部隊で挑みました。そして、瀬戸川にかかる人取橋で相手方の3万人に及ぶ連合軍を迎撃しました。形としては、何とか伊達勢が引き分けの戦いに持ち込みました。この夜、連合軍の軍師を務めていた佐竹義政が、なんと家僕に刺殺されるという事件が起こります。

これにより、佐竹陣営の戦意は一気に萎んでしまい、伊達との決戦を諦め、軍勢を引き上げました。結果的に勝利した政宗は、翌年には二本松城を手に入れ、念願の会津を攻める足がかりを得ます。その後いくつかの戦いを経て天正17年(1589)、ついに摺上原(すりあげはら)の戦いで、伊達領の南にあり奥羽で最大勢力を誇っていた会津の葦名義広(あしなよしひろ)を破りました。

スポット
Nihonmatsujo Castle 福島

そして東北地方の南部は、相馬領を除きほとんどが政宗のものとなり、当主となって5年目、23歳の若さにして伊達家の歴史の中で最大の領土を獲得します。

華やかな建築物と政宗の財政改革

慶長5年(1600)、政宗35歳の時に仙台にて城づくりに取り掛かり、慶長15年(1610)には、豪壮華麗な大広間を持つ、仙台城が出来上がりました。
現在は、戦災などでほとんどの建物が失われてしまい、外観復元されている状態ですが、平成15年(2003)には、仙台城跡が国の史跡に指定されています。

スポット
Sendaijo Castle 仙台

仙台城を築くとき、政宗は建築や絵画、工芸の専門家を上方から仙台に招いており、彼らは城づくりだけではなく、政宗が力を入れた神社やお寺の建設にも参加しました。瑞巌寺や大崎八幡宮を見ると、政宗が、桃山文化を東北地方にもたらし、素晴らしい建築物を建てさせたことがよくわかります。

スポット
Zuiganji Temple 宮城
スポット
Osaki Hachimangu Shrine 仙台

城の建設だけでなく、政宗は北上川の流れを変える大工事をし、荒れ地を開発して新田を開かせました。また新しい北上川の本流が海にそそぐ石巻市を整備し、年貢米などを江戸へ運び出す港としました。この政宗の努力により仙台藩の財政は豊かになりました。そして政宗がつくった城下町仙台は、その中心として栄えたのです。

伊達政宗ゆかりの地

仙台市博物館

伊達政宗の実物の兜が実は4領現存しており、青葉山の麓、仙台城の三の丸跡にある仙台市博物館で見ることができます。仙台の歴史と美術を紹介する博物館で、特に、政宗の遺品や伊達家ゆかりの文化財が充実しています。

スポット
Sendai City Museum 仙台

瑞鳳殿

宮城県仙台市にある、絢爛な政宗廟です。殉死した家臣たちの供養塔が立ち並んでいます。

スポット
Zuihoden Mausoleum 仙台

岩出山城

伊達政宗が仙台城を築く前、約10年に渡って本拠とした城。政宗が仙台城に移ってからは岩出山要害と呼ばれ、一族の岩出山伊達家が治めました。

スポット
Iwadeyamajo Castle 宮城

想いの込められた前立て

武士にとって、切っても切り離せない存在が鎧や兜です。伊達政宗の兜には大きな金の、三日月型の「前立て」がついています。星や月といった天体は神々の象徴でもあり、加護を願って旗印や模様に取り入れることが当時多くありました。

また、政宗が生まれたとき、輝宗は政宗の旗印を白地に赤丸としました。現在の日本国旗とよく似ているデザインです。旗印の太陽と、前立ての月は、輝宗の我が子の成功と守護の願いが込められていたと考えられています。

伊達政宗の辞世の句である「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く(戦乱で何も見えない真っ暗闇の中を、月の光を頼りに、自分が信じた道をひたすら歩いてきた一生であった)」にも、月がかかっています。

crescent moon

神のご加護を受けながら、当時では珍しく70歳まで長生きできたのではないでしょうか。
そして、自らが光となりただひたすら進んでいく情熱にあふれた武将であり、だからこそ“天下統一”を狙えた人物の一人としていわれていたのかもしれません。

「Bottle Armor」日本の本物の伝統を現代スタイルでお届け

date masamune bottle armor

「成功と守護」の意味が込められた月の前立てが輝く、伊達政宗の甲冑が、職人の手により、Bottle Armorとして蘇りました。お酒などの瓶にかぶせる小さな甲冑です。一つ一つのパーツを手作業で製作しており、非常に精巧な作りとなっています。

present box

Bottle Armorでは、言葉では伝えきれない気持ちを込めて大切な人に送ることができます。出生祝いやお子さん・お孫さんの入学祝い、また二十歳の記念日のプレゼントとして人気です。
*皇太子様の結納に納められた桐箱を製作した一流職人の手による、特製桐箱にパッケージされ、高級感が漂います。

サイズは3種類
・一升瓶ボトル(40cm / 1.8L)
・ミニボトル(37cm / 750ml)
・ミニゴールドボトル(37cm / 750ml)

Sponsored Links

感性を刺激するツアーを探す

ガイド付きツアーは、ガイドの感性に触れるツアーです。旅行という非日常で多様な価値観に触れ、自らの価値観を豊かにしましょう。

探す
WOW U-mediator

モバイル版アプリ

モバイル版アプリをインストールすることで、タブレット・スマートフォンで快適にWOW Uを閲覧・操作できます。
動作保証環境については各ダウンロードページをご参照ください。

App Mock